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パリのパレ・ド・ジュスティス(Le palais de justice de Paris、パリ司法宮)は、フランスパリ1区のシテ島にあり、島の約3分の1を占める建物(パレ・ド・ジュスティス)である。破毀院、パリ控訴院(fr)、パリ重罪院、パリ大審裁判所、検察局及び弁護士会など複数の主要司法機関が置かれている。 建物は次の各通りに面している : * 北 ロルロージュ河岸 * 東 パレ大通り * 南 オルフェーブル河岸 * 西 アルレー通り(なお、アルレーは初代パリ高等法院長の名。)及びドフィーヌ広場 最寄駅は、パリメトロ4号線シテ駅 == 歴史 == パレ・ド・ジュスティスは、かつての王会(国王顧問会議)の建物である。王会は、パリ高等法院や他のあらゆる旧・終審裁判機関(元帥裁判権など)及び現在も残る終審裁判機関(破毀院及びコンセイユ・デタ)、さらに会計検査院、大法官府などからの上訴を受けていた。パレ・ド・ジュスティスは、元々カペー朝時代の王宮だったシテ宮に起源があり、調理場付きの大広間、コンシェルジュリー、サント・シャペル、複数の塔及び様々な建物の用地など王宮当時の遺跡が残っている。 シャルル5世 の治世下、シテ宮からサン・ポール館への居城の移転が決定されたが、パリ高等法院や会計検査院、大法官府など司法機構はそのままシテ宮に残された。 この宮殿は複数回の火災に遭っている。1601年、ホールに被害が及び、フランス王の木像コレクションが失われた。1618年、大広間に猛威を振るい、サロモン・ド・ブロスに再建が託された。1630年、サント・シャペルの尖塔が炎の犠牲となり、続いて1737年には会計検査院が同様の被害を被った。1776年、ルイ16世の治世下、コンシェルジュリーとサント・シャペルとの間の部分が火災に焼き尽くされた。 中庭(Cour du Mai)にそびえ立つファサードは、建物の主玄関で、1783年から1786年にかけて、列柱を伴う新古典主義様式で修復された。中庭を飾る壮大な柵は、鍛造された鉄製で、金箔を用いてとても精巧な細工が施されている。この柵は、1776年に金具制作の名匠Bigonnet〔Ministère de la Justice 〕によって、制作された。フランス革命期の1793年4月6日から1795年5月31日まで、ここに革命裁判所が置かれた。 フランス復古王政期のパレ・ド・ジュスティスは、政治的に新たな次元に達した。実際、ルイ18世とシャルル10世以降、司法的審理において、議会制的審議に対する優位が議論された。新たな職位が創設されたが、増大する事務を受け入れるだけの十分な余裕が建物にはなかった。最初の修復工事が計画されたのは、この頃のことである。事件数の増大は止まることを知らず、7月王政下で、壮大な建物の増床計画が開始された。ジャン=ニコラ・ユイヨが、荘厳な大建造物の増床及び防火計画の統括を任された。 ユイヨの死後である1840年、建築家ジョセフ=ルイ・デュックとオノレ・ドメは、この計画実現のために指名された。しかし、2月革命勃発のために、彼らを任命したルイ・フィリップがこの工事の完成を見ることはなかった。計画が順調に進むようになったのは、ナポレオン3世治世下に至ってからである。''カール大帝''と''フィリップ・オーギュスト''の彫像は、いずれも、彫刻家フィリップ=ジョセフ=アンリ・ルメールによる1860年の作品である。 1870年の普仏戦争でナポレオン3世が退位する一連の出来事が起こった頃に、工事はほぼ完成した。しかし、1871年5月24日、崩壊寸前のパリ・コミューン によって、パレ・ド・ジュスティス内の様々な場所に火が放たれた。この火事によって、四半世紀に及んだ工事はほぼ無に帰し、そこから工事を再開せざるを得なかった。デュックが1879年に亡くなった後、ドメが新たに建物の建築責任者に任命された。計画は復旧し、工事は1883年に再開した。もっとも、コンシェルジュリーはこの年に完成した。1914年以降、パレ・ド・ジュスティスにはこれほど大規模な工事はなされていない。 新古典主義様式の南側ファサードには、1944年8月のパリの解放時の多数の弾痕が刻まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パレ・ド・ジュスティス (パリ)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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